●卷二十二 土贡考一
○历代土贡(进奉羡馀)
《禹贡》:兖州,厥贡漆、丝,厥篚织文(织文,锦绣之属,盛之筐篚而贡)。青州,厥贡盐、絺(细葛),海物维错(错,杂也);岱畎丝、枲、铅、松、怪石(畎,谷也。怪石,石似玉),厥篚檿丝(檿,桑蚕丝,中琴瑟弦)。徐州,厥贡惟土五色,泗滨浮磬,淮夷蠙珠暨鱼,厥篚元纤缟(元,黑缯。缟,白缯。纤,细也。明二缯俱细)。扬州,厥贡惟金三品(金、银、铜),瑶、琨(美玉)、蓧、簜(美竹),齿、革、羽毛,惟木,厥篚织贝(织,细苎。贝,水物),厥包橘、柚,锡贡(锡命乃贡,言不常)。荆州,厥贡羽、毛、齿、革,惟金三品,杶、榦、栝、柏(榦,柘也),砺、砥、砮丹(砮,矢镞),惟箘、簵、楛,三邦底贡厥名(箘、簵,美竹。楛,中矢榦。三物皆出雲梦泽傍,三国常致贡之,天下称善),包(橘柚)匦(匣也)菁、茅(菁以为菹,茅以为酒),厥篚元纁、玑、组(此州染元纁色善,故贡之。玑,珠类。组,绶类);九江纳锡大龟。豫州,厥贡漆、枲、絺,紵,厥篚纤纩(纩,细绵),锡贡磬错(治玉曰错)。梁州,厥贡璆、鐵、銀、鏤、砮、磬(璆,玉名;鏤,剛鐡),熊、罴、狐、狸、织皮(贡四兽之皮,织金罽)。雍州,厥贡球、琳、琅玕(球、琳,皆玉名。琅玕,石似珠)。
《周官》:太宰"以九贡致邦国之用,一曰祀贡(牺牲、包茅之属),二曰嫔贡(嫔,故书作"宾"。宾贡,皮帛之属),三曰器贡(宗庙之器),四曰币贡(绣帛),五曰材贡(木材也),六曰货贡(珠贝自然之物),七曰服贡(祭服),八曰斿贡(羽毛),九曰物贡"(九州之外,各以其所贵为贽)。
大行人:"邦畿方千里,其外方五百里,谓之侯服,岁一见,其贡祀物。又其外方五百里,谓之甸服,二岁一见,其贡嫔物。又其外方五百里,谓之男服,三岁一见,其贡器物。又其外方五百里,谓之采服,四岁一见,其贡服物。又其外方五百里,谓之卫服,五岁一见,其贡材物(材物,八材也)。又其外方五百里,谓之要服,六岁一见,其贡货物。九州之外,谓之蕃国,世一见,各以其所贵宝为贽。"(若犬戎献白狼、白鹿是也)
汉高帝十一年,诏诸侯王、通侯常以十月朝献,及郡各以人口数率,人岁六十三钱,以给献费。(诏见《丁赋门》)
文帝後六年,大旱蝗,令诸侯毋入贡,弛山泽。
时有献千里马者,诏曰:"鸾旗在前,属车在後,吉行日五十里,师行日三十里,朕乘千里马,独先安之?"於是还马,与道里费。
元帝初元五年,罢齐三服官(齐国旧有三服之官,春献冠帻纟徙为首服,纨素为冬服,轻绡为夏服)。
东汉世祖建武十三年,诏曰:"往年已敕郡国,异味不得有献御,今犹未止,非徒有豫养导泽之劳,至乃烦扰道上,疲费过所。其令官勿复受。明敕下以远方口实所以荐宗庙者,自如旧制。"
异国有献名马者,日行千里,又进宝剑,价兼百金。诏以马驾鼓车,剑赐骑士。
野王岁献甘醪、膏饧,每辄扰人,吏以为市。樊儵临终,奏乞罢之,明帝从之。
明帝永平十一年,漅湖出黄金,庐江太守取以献。
章帝建初二年,诏齐相省冰绮、方空縠、吹纶絮(旧齐有三服官,今省)。
和帝诏太官勿受远国珍羞。
旧南海献龙眼、荔枝,十里一置,五里一候,奔腾险阻,死者继路。时临武长汝南唐羌,县接南海,乃上书陈状。诏曰:"远国珍羞,本以奉宗庙,苟有伤害,岂爱民之本!其敕太官勿复受献。"
安帝永初五年,诏省减郡国贡献太官口食。
和熹邓后诏蜀、汉釦器凡带佩刀并不复调(釦音口,以金银缘器也)。
顺帝永建四年,诏曰:"海内颇有灾异,朝廷修政,太官减膳,珍玩不御。而桂阳太守文砻,不惟竭忠宣畅本朝,而远献大珠,以求幸媚,今封还之。"
晋武帝时,太医司马程据献雉头裘,帝焚之於殿前,乃敕内外敢有献奇技异服者罪之。
隋炀帝龙舟幸江都,所过州县,五百里外皆令献食,多者一州至百辇,极水陆珍奇,後宫厌饫,将发之际,多弃埋之。帝至江都,江淮郡官谒见者,专问礼饷丰薄,丰则超迁丞、守,薄则率从停解。江都郡丞王世充献铜镜屏风,迁通守;历阳郡丞赵元楷献异味,迁江都郡丞。由是郡县竞务刻剥,以充贡献。民外为盗贼所掠,内为郡县所赋,生计无遗。
唐制:州府岁市土所出以为贡,其价视绢之上下,无过五十匹。异物、滋味、名马、鹰犬,非有诏不献。有加配则以代租赋。
中宗时,大臣初拜官,献食天子,名曰"烧尾",苏瓌独不进,及侍宴,宗晋卿嘲之,帝默然。瓌曰:"宰相燮和阴阳,代天治物,今粒食踊贵,百姓不足,臣诚不称职,不敢烧尾。"
元宗开元二十四年千秋节,群臣皆献宝镜。张九龄以为以镜自照见形容,以人自照见吉凶,乃述前世兴废之源,为书五卷,谓之《千秋金镜录》上之。
代宗时生日端午,四方贡献至数千万者,加以恩泽,诸道多尚侈丽以自媚。
德宗既平朱泚之後,屬意聚歛藩鎮,常賦之外進奉不息。劒南西川節度使韦皋有"日进",江西观察李兼有"月进",他如杜亚、刘赞、王纬、李錡皆徼射恩泽,以常赋入贡,名为"羡馀",至代易又有"进奉"。户部财物,所在州府及巡院皆得擅留,或矫密旨加敛,或减刻吏禄,或贩鬻蔬果,往往私自入,所进才十二三,无敢问者,刺史及幕僚至以进奉得迁官。
李德裕为浙西观察使,敬宗立,侈用无度,诏浙西上脂盝妆具。德裕奏:"比年旱灾,物力未完。乃三月壬子赦令,常贡之外,悉罢进献,又赦令禁诸州羡馀无送使。今岁经费常少十三万,军用褊急,所需脂盝妆具度用银二万三千两、金一百三十两,物非土产,虽力营索,尚恐不逮。愿诏宰相议,何以俾臣不违诏旨,不乏军兴,不疲人,不敛怨,则前敕後诏,咸可遵承。"不报。时罢进献不阅月,而求贡使足相接於道,故德裕推一以讽他。又诏索盘绦缭绫千匹,复奏言:"太宗时,使至凉州,见名鹰,讽李大亮献之,大亮谏止,赐诏嘉叹。元宗时,使者抵江南捕鵁鶄、翠鸟,汴州刺史倪若水言之,即见褒纳;皇甫询织半臂,造琵琶、捍拨、镂牙筩於益州,苏頲不奉诏,帝不之罪。夫鵁鶄、镂牙,微物也,二三臣尚以劳人损德为言,岂二祖有臣如此,今独无之?且立鹅天马,盘绦掬豹,文彩怪丽,惟乘舆当御,今广用千匹,臣所未谕。"优诏为停。
宪宗禁无名贡献,而至者不甚却。翰林学士钱微恳谏罢之,帝密戒後有献毋入右银台门,以避学士。
宣宗时,右补阙张潜奏:"藩府代移之际,皆奏'羡馀'为课绩,朝廷因为甄奖。夫财赋有常,非重取於民,刻削军士,则安得'羡馀'?南方诸镇不宁,皆由此也。变故一生,所蓄既遭焚掠,发兵费又百倍,然则朝廷何利焉?乞自今藩府长吏不增赋敛,不减粮赐,独节游宴、省浮费而能致羡者,然後可赏也。"上嘉纳之。
致堂胡氏曰:"宪宗喜进奉,上承乃祖代、德之弊,然当朝多贤,相继论列,虽实不能革,犹文为之禁。穆、敬而後,遂无复谏者,非无进奉也,盖以为常例矣,故李德裕收诸道助军钱帛入备边库。然因私献以为公家费,策之次也。观张潜疏,则益信'羡馀'之进,累朝相袭,明矣。虽然,潜之言曰:'长吏不增赋敛,不减粮赐,独节游宴、省浮费而能致羡,然後赏之。'审如是,将安取馀?且方镇专制境内,其倚法剥削,朝廷何自而稽之?'羡馀'之名存,而甄奖之令在,彼必曰:'此皆节省所得,而非增削所致也。'悦其名,不去其实,病源曷瘳?不若禁绝羡馀,无得进奉,则民瘼庶乎其少损矣。"
唐天下诸部每年常贡:
《通典》:按令文,诸郡贡献,皆取当土所出,准绢为价,多不得过五十匹,并以官物充市。所贡至薄,其物易供,圣朝常制,於斯在矣。其有加於此数者盖修令后续配,亦折租赋,不别徵科。
京兆府 (贡葵草席、地骨白皮、酸枣仁。)
华阴郡 (贡鹞子十联、乌鹘五联、茯苓三十八斤、细辛四斤、茯神三十八斤。今华州。)
马翊郡 (贡白里皱文皮三十一领。今同州。)
扶风郡 (贡龙须席十领。今岐州。)
新平郡 (贡翦刀十具、蛇胆十斤、荜豆澡豆五石、白火箸二十具。今邠州。)
安定郡 (贡龙须席十领。今泾州。)
彭原郡 (贡五色龙须席十领、莞菁、卷{竹閭}子、亭长、假苏、荆芥。今宁州。)
汧阳郡 (贡龙须席六领。今陇州。)
中部郡 (贡龙须席六领。今坊州。)
洛交郡 (贡龙须席六领。今鄜州。)
朔方郡 (贡白毡十领。今夏州。)
安化郡 (贡麝香二十五颗。今庆州。)
灵武郡 (贡鹿角胶、代赭、花苁蓉、白雕翎。今灵州。)
榆林郡 (贡青龙角两具、徐长卿十斤、赤芍药十斤。今胜州。)
延安郡 (贡麝香三十颗。今延州。)
咸宁郡 (贡麝香一颗。今丹州。)
银川郡 (贡女稽布五端。今银州。)
平凉郡 (贡九尺白毡十领。今原州。)
九原郡 (贡野马胯皮二十一片、白麦面、印盛盐。今丰州。)
会宁郡 (贡驼毛褐两段。今会州。)
五原郡 (贡盐山四十颗。今盐州。)
新秦郡 (贡青地鹿角二具、鹿角三十具。今麟州。)
单于都护府 (贡生野马胯皮总十二片。)
安北都护府 (贡生野马胯皮二十一片。)
太原府 (贡铜镜两面、甘草三十一斤、矾石三十斤、龙骨三十斤、蒲萄粉屑、柏子仁。)
上党郡 (贡人参二百小两、墨三梃、今潞州。)
河东郡 (贡绫绢扇四面、龙骨二十斤、枣八千颗、凤栖梨三千五百颗。 今蒲州。)
绛郡 (贡梁榖二十石、墨千四百七十挺、白縠五百匹、梨三千颗。今绛州。)
平阳郡 (贡蜡烛三十条。今晋州。)
西河郡 (贡龙须席十领、石膏五十斤、消石五十斤。今汾州。)
弘农郡 (贡麝香十颗、砚瓦十具。今虢州。)
高平郡 (贡白石英五十小两、人参三十两。今泽州。)
太宁郡 (贡胡女布五端。今隰州。)
昌化郡 (贡胡女布五端。今石州。)
文城郡 (贡蜡二百斤。今慈州。)
阳城郡 (贡龙须席六领。今沁州。)
定襄郡 (贡豹尾十枝。今忻州。)
乐平郡 (贡人参三十两。今仪州。)
雁门郡 (贡白雕翎五具、熟青二十两、熟绿二十两。今代州。)
楼烦郡 (贡麝香十颗。今岚州。)
安边郡 (贡松子一石。今蔚州。)
马邑郡 (贡白雕翎五具。今朔州。)
河南府 (贡瓷器十五事。)
陕郡 (贡柏子仁、瓜娄根各三十斤。今陕州。)
陈留郡 (贡绢二十匹。今汴州。)
荥阳郡 (贡绢二十匹、麻黄二十斤。今郑州。)
临汝郡 (贡絁二十匹。今汝州。)
雎阳郡 (贡绢二十匹。今宋州。)
灵昌郡 (贡绫二十匹并方文。今滑州。)
颍川郡 (贡绢十匹、蔗心席六领。今许州。)
谯郡 (贡绢二十匹。今亳州。)
濮阳郡 (贡绢二十匹。今濮州。)
济阴郡 (贡蛇床子二十斤、绢二十匹。今曹州。)
北海郡 (贡枣两石、仙文绫十匹。今青州。)
淮阳郡 (贡绢十匹。今陈州。)
汝南郡 (贡鸂〈涑力鳥〉绫十匹。今豫州。)
东平郡 (贡绢二十匹。今郓州。)
淄川郡 (贡防风五十斤、进理石五斤。今淄州。)
临淄郡 (贡丝葛十五匹。今齐州。)
鲁郡 (贡镜花绫十匹、紫英白二十二两。今兖州。)
彭城郡 (贡绢二十匹。今徐州。)
临淮郡 (贡绵二十屯、赀布十匹。今泗州。)
汝阴郡 (贡绵二十屯。今颍州。)
东海郡 (贡楚布十匹。今海州。)
济阳郡 (贡阿胶二百小片、鹿角胶三十小片。今济州。)
琅琊郡 (贡紫石英二十两。今沂州。)
高密郡 (贡赀布十端、牛黄一斤、海蛤二十两。今密州。)
东牟郡 (贡牛黄百二十八株、水葱席六领。今登州。)
范阳郡 (贡绫二十匹。今幽州。)
河内郡 (贡平沙十匹。今怀州。)
魏郡 (贡白绵绸八匹、白平绸八匹。今魏州。)
汲郡 (贡绵三百两。今卫州。)
邺郡 (贡纱十匹、凤翮席六领、胡粉百团。今相州。)
广平郡 (贡平绸十匹。今洺州。)
清河郡 (贡毡十领。今贝州。)
信都郡 (贡绢二十匹、绵一十屯。今冀州。)
平原郡 (贡绢二十匹。今德州。)
饶阳郡 (贡绢二十匹。今深州。)
河间郡 (贡绢三十匹。今瀛州。)
东莱郡 (贡牛黄百二十二两。今莱州。)
常山郡 (贡梨六百颗、罗二十匹。今恒州。)
景城郡 (贡细簟四领、细柳箱八十合、糖蟹二十三坩、鱧鮬三百五十挺。今沧州。)
博陵郡 (贡细绫千二百七十匹、两窠细绫十五匹、瑞绫二百五十五匹、 大独窠绫二十五匹、独窠绫一十匹。今定州。)
赵郡 (贡绵五十匹。今赵州。)
钜鹿郡 (贡丝布十匹。今邢州。)
博平郡 (贡绸十匹。今博州。)
文安郡 (贡绵三百两。今莫州。)
上谷郡 (贡墨三百挺。今易州。)
乐安郡 (贡绢十匹。今棣州。)
北平郡 (贡蔓荆子四斤。今平州。)
密雲郡 (贡人参五斤。今檀州。)
妫川郡 (贡麝香十颗。今妫州。)
渔阳郡 (贡鹿角胶十斤。今蓟州。)
柳城郡 (贡麝香十颗。今营州。)
归德郡 (贡豹尾三枚。今燕州。)
安东都护府 (贡人参五斤。)
武威郡 (贡野马皮五张、白小麦十石。今凉州。)
天水郡 (贡龙须席六领、芎藭四十斤。今秦州。)
安西都护府 (贡硇砂五十斤、绯毡五领。)
北庭都护府 (贡阴牙角五只、速霍角十只、阿魏截根二十斤。)
交河郡 (贡傆布十端。今西州。)
晋昌郡 (贡草鼓子、野马皮、黄矾、绛矾、胡桐泪。今瓜州。)
西平郡 (贡牸犀角十只。今鄯州。)
陇西郡 (贡麝香十颗、秦胶。今渭州。)
敦煌郡 (贡棋子二十具、石膏。今沙州。)
酒泉郡 (贡肉苁蓉二十斤、相脉二十斤、野马皮两张。今肃州。)
金城郡 (贡麝香十颗、〈鼠屯〉〈鼠多〉鼠六头。今兰州。)
安乡郡 (贡麝香二十颗。今河州。)
同谷郡 (贡蜡烛十条。今成州。)
和政郡 (贡龙须席六领,并青黄色。今岷州。)
武都郡 (贡蜡烛十条、蜜蜡、羚羊角。今武州。)
临洮郡 (贡麝香十颗。今洮州。)
怀道郡 (贡麸金十两、散金十两。今石州。)
宁塞郡 (贡麸金六两、大黄、戎盐。今廓州。)
合川郡 (贡麝香二十颗。今叠州。)
张掖郡 (贡野马皮十张、枸杞子六斗、药二十斤。今甘州。)
伊吾郡 (贡阴牙角五只、胡桐泪二十五斤。今伊州。)
广陵郡 (贡藩客锦袍五十领、锦被五十张、半臂锦百段、新加锦袍二百领、青铜镜十面、莞席十领、独窠细绫十匹、蛇床子七斗、蛇床仁一斗 、铁精一斤、兔丝子一斤、白芒十五斤、空青三两、造水牛皮甲千领并袋。今扬州。)
安陆郡 (贡青紵十五匹。今安州。)
弋阳郡 (贡葛十匹、生石斛六十斤。今光州。)
义阳郡 (贡葛十匹。今申州。)
庐江郡 (贡丝布十匹、石斛六十斤。今庐州。)
蕲春郡 (贡白苎布十五端、乌蛇脯。今蕲州。)
同安郡 (贡蜡五十斤、石斛六十斤。今舒州。)
历阳郡 (贡麻布十匹。今和州。)
锺离郡 (贡丝布十匹。今濠州。)
寿春郡 (贡丝布十匹、生石斛五十斤。今寿州。)
齐安郡 (贡紫苎布十端、{云虫}虫二斤。今黄州。)
淮阴郡 (贡赀布十匹。今楚州。)
汉阳郡 (贡麻赀布十匹。今沔州。)
江陵郡 贡白方文绫二十匹、橘皮九十斤、栀子五斤、贝母十斤、覆盆子三斤、石龙芮一斤、乌梅肉十斤。今荆州。)
永阳郡 (贡苎练布十五匹。今滁州。)
襄阳郡 (贡五盛碎古文库路真二具、十盛花库路真二具。今襄州。)
南阳郡 (贡丝布十匹。今邓州。)
淮安郡 (贡绢千匹。今唐州。)
上洛郡 (贡麝香三十颗。今商州。)
安康郡 (贡麸金五两、乾漆六斤、杜仲二十斤、椒目十斤、黄蘖六斤、枳实六斤、枳壳十四斤、茶芽一斤、椒子一石、雷丸五两。今金州。)
武当郡 (贡麝香二十颗。今均州。)
房陵郡 (贡麝香二十颗、雷丸、石膏、苍矾石。今房州。)
汉东郡 (贡绫十匹、葛五匹、覆盆子。今随州。)
南浦郡 (贡金五两。今万州。)
沣阳郡 (贡柑子四百颗、橘子七百颗、龟子绫十匹、恒山一斤、五入簟四领。蜀漆一斤今沣州。)
雲安郡 (贡蜡百斤。今夔州。)
竟陵郡 (贡白苎布一端。今复州。)
武陵郡 (贡紵练布十端。今朗州。)
夷陵郡 (贡茶二百五十斤、柑子二千颗、五加皮二斤、杜若二斤、芒硝四十斤、鬼臼二斤、蜡百斤。今峡州。)
南宾郡 (贡苏薰席四领、绵绸五匹。今忠州。)
富水郡 (贡白苎布十端。今郢州。)
巴东郡 (贡蜡四十斤。今归州。)
汉中郡 (贡红花百斤、燕脂一升。今梁州。)
通川郡 (贡绵绸三匹、蜂香五斤、药子二百颗。今通州。)
顺政郡 (贡蜡六十斤。今兴州。)
巴川郡 (贡牡丹皮十斤、药子二百颗、今合州。)
清化郡 (贡绵绸十匹。今巴州。)
洋川郡 (贡白交梭十匹。今洋州。)
河池郡 (贡蜡百斤。今凤州。)
益昌郡 (贡丝布十匹。今利州。)
咸安郡 (贡绵绸十匹。今蓬州。)
盛山郡 (贡蜡四十斤、车前子一升。今开州。)
始宁郡 (贡绵绸十匹。今璧州。)
南平郡 (贡葛五匹。今渝州。)
符阳郡 (贡蜡五十斤、药子二百颗。今集州。)
潾山郡 (贡绸一十匹、买子木十斤、子一升。今渠州。)
丹阳郡 (贡方文绫七匹、朱文绫八匹。今润州。)
晋陵郡 (贡细青苎布十匹。今常州。)
吴郡 (贡丝葛十匹、白石脂三十斤、蛇床子三斤、鯔鱼皮三十头、魥鱼腊五十头、压胞七斤、肚鱼五十头、春子五升、嫩藕三百段。今苏州。)
馀杭郡 (贡白编绫十匹、橘子二千颗、蜜姜十石。今杭州。)
会稽郡 (贡朱砂十两、白编绫十匹、交梭十匹、轻调十匹。今越州。)
馀姚郡 (贡附子百枚。今明州。)
东阳郡 (贡纸六千张、绵六百两、葛粉二十石。今婺州。)
新定郡 (贡交梭三十匹、竹簟一合。今睦州。)
信安郡 (贡绵百屯、纸六千张。今衢州。)
吴兴郡 (贡苎布三十端。今湖州。)
临海郡 (贡鲛鱼皮百张、乾姜百斤、乳柑六千颗、金漆五升三合。今台州。)
永嘉郡 (贡鲛鱼皮三十张。今温州。)
新安郡 (贡苎布十五端、竹簟一合。今歙州。)
长乐郡 (贡蕉二十匹、海蛤一斤。今福州。)
清源郡 (贡绵二百两。今泉州。)
建安郡 (贡蕉二十匹、练十匹。今建州。)
临汀郡 (贡烛二十条。今汀州。)
漳浦郡 (贡鲛鱼皮二十张、甲香五斤。今漳州。)
潮阳郡 (贡蕉布十匹、蚺虵胆十枚、鲛鱼皮十张、甲香五斤,石井、钞石、水马。今潮州。)
宣城郡 (贡白苎布十匹。今宣州。)
豫章郡 (贡葛十五匹、柑子六千颗。今洪州。)
鄱阳郡 (贡麸金十两、簟一合。今饶州。)
长沙郡 (贡葛十五匹。今潭州。)
南康郡 (贡竹布二十匹。今虔州。)
零陵郡 (贡葛十匹、石燕二百颗。今永州。)
临川郡 (贡葛布十匹、箭簳百万茎。今抚州。)
桂阳郡 (贡白苎布十匹。今郴州。)
庐陵郡 (贡白苎布二十端、陟釐十斤。今吉州。)
浔阳郡 (贡葛十匹、生石斛十斤。今江州。)
江华郡 (贡零陵香百斤、白布十端。今道州。)
衡阳郡 (贡麸金十四两。今衡州。)
江夏郡 (贡银五十两。今鄂州。)
宜春郡 (贡白苎布十匹。今袁州。)
巴陵郡 (贡白苎布十匹。今岳州。)
邵阳郡 (贡银二十两。今邵州。)
蜀郡贡 (单丝罗二十匹、高苎衫段二十匹。今益州。)
唐安郡 (贡罗二十匹。今蜀州。)
濛阳郡 (贡交梭二十匹。今彭州。)
德阳郡 (贡弥布十匹、紵布十匹。今汉州。)
通义郡 (贡麸金八两、柑子不限多少。今眉州。)
梓潼郡 (贡绫十六匹。今梓州。)
巴西郡 (贡双紃二十匹。今绵州。)
普安郡 (贡丝布十匹、苏薰席六领。今剑州。)
阆中郡 (贡重连绫二十匹。今阆州。)
资阳郡 (贡麸金七两、柑子不限多少。今资州。)
临邛郡 (贡丝布十匹。今邛州。)
通化郡 (贡麝香六十枚、扇香十枚、齐香十枚、颗香三十枚。今茂州。)
交川郡 (贡麝香三十枚、当归七斤、羌活五斤、野狐尾五枚。今松州。)
越隽郡 (贡丝布十匹、进刀子靶六十枚。今隽州。)
南溪郡 (贡葛十匹、六月进荔枝煎。今戌州。)
遂宁郡 (贡樗蒲绫十五匹、乾天门冬百一十斤。今遂州。)
南充郡 (贡丝布十匹。今果州。)
仁寿郡 (贡细葛五匹。今陵州。)
犍为郡 (贡麸金五两。今嘉州。)
卢山郡 (贡金、落雁木。今雅州。)
泸川郡 (贡葛十匹。今泸州。)
阳安郡 (贡绵绸十匹、柑子不限多少。今简州。)
安岳郡 (贡葛十匹、天门冬煎四斗。今普州。)
洪源郡 (贡蜀椒一石。今当州。)
阴平郡 (贡麝香二十颗、白蜜一石。今文州。)
同昌郡 (贡麝香十颗。今扶州。)
油江郡 (贡麸金六两、羚羊角六具。今龙州。)
临翼郡 (贡麝香三十四颗、氂牛尾五斤、当归十斤。今翼州。)
归城郡 (贡麝香六颗、氂牛尾五斤、当归二十斤。今悉州。)
静川郡 (贡麝香六颗、当归十斤、羌活十斤、氂牛尾五斤、今静州。)
恭化郡 (贡麝香二十颗、当归十斤、羌活十斤。今恭州。)
维川郡 (贡麝香二十颗、氂牛尾十斤。今维州。)
和义郡 (贡班布六匹。今荣州。)
雲山郡 (贡麝香十颗、墨氂牛尾二斤。今秦州。)
蓬山郡 (贡麝香十颗、当归十斤、羌活十斤。今柘州。)
黔中郡 (贡朱砂十斤、今黔州。)
卢溪郡 (贡光明砂四斤、今辰州。)
灵溪郡 (贡朱砂十斤、茶芽二百斤。今溪州。)
潭阳郡 (贡麸金八两。今巫州。)
卢阳郡 (贡光明砂一斤。今锦州。)
清江郡 (贡黄连十斤、蜡十斤、黄子二百颗。今施州。)
涪陵郡 (贡连头獠布十段。今涪州。)
宁夷郡 (贡蜡五十斤。今思州。)
义泉郡 (贡蜡烛十条。今夷州。)
龙溪郡 (贡蜡二十斤。今业州。)
南川郡 (贡布五端。今南州。)
南海郡 (贡生沈香七十斤、甲香三十斤、石斛二十斤、鼊皮三十斤、蚺蛇胆五枚、僄沈香二十五斤、藤簟二合、竹簟五领。今广州。)
始安郡 (贡银百两。今桂州。)
安南都 (护府贡蕉布十端、槟榔二千颗、鱼皮二十斤、蚺蛇胆二十枚、 翠毛二百合。)
普宁郡 (贡朱砂二十斤、水银二十斤。今容州。)
始兴郡 (贡锺乳二十四斤十二两二分、竹子布十五匹、石斛二十斤。今韶州。)
临贺郡 (贡银三十两。今贺州。)
连山郡 (贡纟卑布十匹、锺乳十两。今连州。)
高要郡 (贡银二十两。今端州。)
平乐郡 (贡银二十两。今昭州。)
新兴郡 (贡银五十两、蕉五匹。今新州。)
南潘郡 (贡银二十两、今潘州。)
陵水郡 (贡银二十两、今辩州。)
高凉郡 (贡银二十两、蚺蛇胆二枚。今高州。)
海康郡 (贡丝电四匹。今雷州。)
临江郡 (贡银二十两。今龚州。)
浔江郡 (贡银二十两。今浔州。)
蒙山郡 (贡麸金十两。今蒙州。)
开江郡 (贡斑布五端。今富州。)
修德郡 (贡银二十两。今严州。)
临封郡 (贡银二十两、石斛十小斤。今封州。)
南陵郡 (贡银二十两、石斛十小斤。今春州。)
昭义郡 (贡银二十两。今罗州。)
日南郡 (贡象牙二根、犀角四根、沈香二十斤、金薄黄屑四石。今驩州。)
定川郡 (贡银二十两。今牢州。)
怀德郡 (贡银二十两。今窦州。)
宁浦郡 (贡银二十两。今横州。)
象郡 (贡银二十两。今象州。)
开阳郡 (贡石斛三斤、银二十两。今泷州。)
感义郡 (贡银二十两。今藤州。)
平琴郡 (贡银二十两。今平琴州。)
合浦郡 (贡银二十两。今廉州。)
连城郡 (贡银二十两。今义州。)
玉山郡 (贡玳瑁二具、鼊皮六十斤、翠毛三百合、甲香二斤、今陆州宁仁郡贡银一十两。今党州。)
怀泽郡 (贡细白苎布十端。今贵州。)
龙城郡 (贡银二十两。今柳州。)
铜陵郡 (贡石斛二十小斤、银二十两。今勤州。)
海丰郡 (贡五色藤镜匣一具、蚺蛇胆三枚、甲煎二两、〈魚廷〉鱼皮三、荃台一。今循州。)
晋康郡 (贡银二十两。今康州。)
恩平郡 (贡银二十两。今恩州。)
朱崖郡 (贡银二十两、真珠二斤、玳瑁一具。今崖州。)
万安郡 (贡银二十两。今万安州。)
延德郡 (贡藤盘。今振州。)
右《通典》所载唐朝诸郡土贡物件,比《唐书 地理志》所言各郡土贡微有不同。又《宋史 地理志》及《会要》亦各有土贡物件,与唐亦小异。今除土产已见《地里考》,馀不悉录,而罢免蠲除之诏旨与其名物,则不容不悉著之云。(唐天宝前土宇广於宋,举唐则可以见宋矣,故不悉著。《宋史》所载,详见《地里考》)
後周太祖命王峻疏四方贡献珍美食物,下诏悉罢之。诏略曰:"所奉止於朕躬,所损被於甿庶。"又曰:"积於有司之中,甚为无用之物。"
宋太祖皇帝建隆二年,诏文武官及致仕官、僧、道、百姓,自今长春节及他庆贺,不得辄有贡献。
自唐天宝以来,方镇屯重兵,多以赋入自赡,名曰留使、留州,其上供殊鲜。五代方镇益强,率今部曲主场院,厚敛以自利;其属三司者,补大吏临之,输额之外辄入已,或私纳货赂,名曰"贡奉",用冀恩赏。上始即位,犹循前制,牧守来朝,皆有贡奉,及赵普为相,劝上革去其弊。是月,申命诸州度支给费外,凡金帛悉送都下,以助军实,无得占留。方镇阙帅守,命文官权知;所在场院,间遣京朝官廷臣监临;又置转运使、通判。条禁文簿,渐为精密。由是利归於上,外权削矣。
乾德四年,罢光州岁贡鹰鹞,放养鹰户。
开宝五年,诏罢荆襄道贡鱼腊。
太宗太平兴国二年,容州初贡珠。
自废"媚川都",禁民采珠,未几,官复自采。容州海渚亦产珠,仍置官掌之。
至是,加贡珠百斤,赐负担者银带、衣服。
真宗咸平二年,内侍裴愈因事至交州,谓龙花蕊难得之物,宜充贡,本州遂以为献。上怒黜愈,隶崖州,仍绝其贡。是岁,又减罢剑、陇、夔、贺等五十馀州土贡,又罢三十馀州岁贡茶。
仁宗天圣四年,却川峡献织绣。又诏罢夔州玳瑁、紫贝等贡。
神宗元年,上出诸州贡物名件,自漳州山姜花万朵以下,至同州榅桲二十颗,凡四十三州七十种,虑其耗蠹民力诏罢之。
诸路进奉金银钱帛共二十七万三千六百八贯、匹、两。金二千一百两。银一十六万五千四百五十两。折银钱一万八千二百五十九贯七十七文。匹帛八万七千八百匹。
同天节进奉一十二万七百四十三贯、匹、两。京东路金二百两、银五千五百两,折银钱四千三百二十四贯七百文、绢七千三百匹。京西路金一百两、银七千一百两,折银钱二千六百九贯四百七十五文。淮南路银九千二百五十两,折银钱一千七十九贯二百二十一文。两浙路银一万一千八百两、绢五千五百匹。江南东路金一千两、银六千两,折银钱五百八十贯、绢四千匹。江南西路银一万四千五百两、绢二千五百匹。荆湖南路银九千三百两。荆湖北路银八千一百两。福建路银一万四千两。广南东路银四千两。江、淮、荆、浙发运使副银各五百两。江、淮等路提点铸钱司银一千两。
南郊进奉一十五万二千八百六十五贯、匹、两。京东路金七百两、绢一万三千匹,折银钱六百五贯文。京西路金一百两、银一千三百两、绢一万五千五百匹,折银钱二千一百一十贯。淮南路银三千五百两,折银钱六千一百三十九贯五百一十二文,绢一万五千匹。两浙路银九千五百两、绢八千五百匹、罗一千匹。江南东路银五千五百两,折银钱五百八十一贯一百六十九文、绢九千匹。江南西路银一万五百两、绢四千匹。荆湖南路银一千三百两。荆湖北路银七千八百两、绢五百匹。福建路银二万三千两。广南东路银三千两。广南西路银五百两、钱二百三十贯文。
右系毕仲衍《中书备对》所述元丰间诸路圣节、南郊进奉金帛之数,内同天节江南东路进奉金一千两,即乾道间洪文敏公奏乞蠲减饶州圣节贡金,而寿皇特旨减七百两者是也。盖承平时圣节天下进奉通该金一千三百两,而江东路独当一千两,而江东之一千两则又止饶州一郡所出云。
徽宗政和七年,置提举御前人船所。时东南监司、郡守、二广市舶率有应奉,又有不待旨,但送物至都,计会宦者以献。大率灵壁、太湖、慈口溪、武康诸石,二浙奇竹、异花、海错,福建荔枝、橄榄、龙眼,南海椰实,登、莱文石,湖湘文竹,四川佳果木,皆越海渡江,毁桥梁、凿城郭而至,植之皆生,而异味珍苞则以健步捷走,虽甚远,数日即达,色香未变也。乃作提举淮、浙人船所,命内侍邓文浩领之。蔡京以曩备东封船二千艘及广济兵士四营,又增制作牵驾人,乞诏人船所比直达纲法,自後所用,即从御前降下,使系应奉人船所数贡入,馀皆不许妄进。
高宗建炎元年,诏:"诸路常贡时新口味果实之类,所在因缘更相馈送,骚扰为甚。其令礼部措置,除天地、宗庙、陵寝荐献所须外,馀并罢。"又诏:"天下土贡如金银、匹帛,以供宗庙祭享之费用,以赡官兵之请给,不可阙者依格起发外,其馀药材海错、邠州火箸、襄阳府漆器、象州藤合、扬州照子之类,一切罢之。"
绍兴四年,先是,和州言:"本州残破之馀,乞蠲免大礼银绢。"户部奏展半年。中书舍人王居正言:"生辰及大礼进贡,乃臣子飨上之诚,初非朝廷取於百姓。若民力无所从出,合预降诏,曲加慰谕,止其进奉,则君臣恩礼两尽。既不能然,至使州县自乞,盖已非是,矧又不许,臣窃以为过矣。望特与蠲免,仍诏户部,淮南诸郡如合行除放,不须令本处再三申请,庶使恩意自出朝廷,人知感悦。"乃诏淮南州军进奉大礼银绢并蠲之。
绍兴二十六年,诏罢临安府岁贡御服绫一百匹。又诏罢连州岁贡珠子,其籍定蜑丁并放逐便。
二十七年,宰执奏四川便民事,上曰:"蜀制造锦绣帟莫,以充岁贡,闻十岁女子皆拘在官刺绣。朕自即位以来,不欲土木被文绣,首为罢去,後来节次科敷多所蠲减,想民力稍宽矣。"
三十二年,孝宗登极赦:"诸路或假贡奉为名,渔夺民利,果实则封闭园林,海错则强夺商贩,至於禽兽、昆虫、珍味之属则抑配人户,致使所在居民以土产之物为苦。太上皇帝尝降诏禁约贡奉,窃虑岁久,未能遵承,自今仰州军条具土产合贡之物闻於朝,当议参酌天地、宗庙、陵寝合用荐献及德寿宫甘旨之奉,止许长吏修贡外,其馀一切并罢,州郡因缘多取,以违制坐之。"
●卷二十三 国用考一
○历代国用
《王制》:"冢宰制国用,必於岁之杪,五榖皆入,然後制国用。用地小大,视年之丰耗,以三十年之通,制国用,量入以为出(通三十年之率,当有九年之蓄。出,谓所当给为)。祭用数之仂(算今年一岁经用之数,用其什一),丧用三年之仂(丧,大事,用三岁之什一)。丧祭,用不足曰暴,有馀曰浩(暴,犹耗也。浩,犹饶也)。祭,丰年不奢,凶年不俭。国无九年之蓄曰不足,无六年之蓄曰急,无三年之蓄曰国非其国也。三年耕,必有一年之食;九年耕,必有三年之食。以三十年之通,虽有凶旱水溢,民无菜色,然後天子食,日举以乐。"
《周官》:太宰以九赋敛财贿,一曰邦中之赋,二曰四郊之赋,三曰邦甸之赋,四曰家削之赋,五曰邦县之赋,六曰邦都之赋,七曰关市之赋,八曰山泽之赋,九曰币馀之赋(财,泉榖也。郑司农云:"邦中之赋,二十之税一,各有差也。币馀,百工之馀。"元谓:"赋,口率出泉。卿大夫岁时登其夫家之众寡,辨其可任者征之,遂师征其财,皆此赋也。邦中,在城郭者。四郊,去国百里。邦甸,二百里;家削,三百里;邦县,四百里;邦都,五百里。此平民也。关市、山泽,谓占会百物。币馀,谓占卖国中之斥币。盖百官所用官物不尽者归之职币,职币得之,不入本府,恐久藏朽蠹,则有人占卖,依国服出息,谓之斥币,谓指斥舆人也。此三者皆末作当增赋者,若今贾人倍算矣。自邦中至币馀,各入其所有榖物,以当赋泉之数")。
按:此九赋,先郑以为地赋,後郑以为口赋。然关市即邦中之地也,山泽即四郊以下之地也,一地而再税之可乎?关市即邦中之人也,山泽即四郊以下之人也,一人而再税之可乎?後郑虽有末作增赋之说,然於币馀一项尚觉牵强,且居关市及山泽之民,未必皆能占会百物以取利者也,尽从而倍征之可乎?愚以为自邦中至邦都,皆取之於民者,其或为地赋,或为口赋,不可知也;关市以下,则非地赋,亦非口赋,乃货物之税也。关市者,货之所聚,故有赋,如後世商税是也;山泽者,货之所出,故有赋,如後世榷盐、榷茶之类是也。币馀则如後世领官物营运之类,故取其息。息即赋也,故名之曰九赋,而太宰总其纲焉。
以九式均节财用,一曰祭祀之式,二曰宾客之式,三曰丧荒之式,四曰羞服之式,五曰工事之式,六曰币帛之式,七曰刍秣之式,八曰匪颁之式(匪,分也,谓颁赐也),九曰好用之式(燕好所赐子。式谓用财之节)。
太府掌九贡、九赋、九功之贰,以受其货贿之入,颁其货於受藏之府(若内府也),颁其贿於受用之府(若职内也),凡官府都鄙之吏及执事者受财用焉。凡颁财,以式法授之;关市之赋以待王之膳服,邦中之赋以待宾客,四郊之赋以待稍秣,家削之赋以待匪颁,邦甸之赋以待工事,邦县之赋以待币帛,邦都之赋以待祭祀,山泽之赋以待丧纪,币馀之赋以待赐予。凡邦国之贡以待吊用(此九贡之财),凡万民之赋以充府库(此九职之财),凡式贡之馀财以供玩好之用(谓先给九式及吊用,足府库而有馀财,乃可以供玩好,明玩好非治国之用),凡邦之赋用取具焉,岁终则以货贿之入出会之。
先公曰:"《周官》,天下之财只有三项:九贡是邦国之贡,据经以待吊用;九赋是畿内之赋,以给九式之用;九职万民之贡,以充府库。三者馀财,以供玩好。虽然,邦国之贡多矣,吊用之费几何,愚恐其有馀;畿内之赋有限矣,九式之费何广也?愚恐其不足。"
玉府掌王之金玉玩好,凡良货贿之藏,凡王之献金玉、兵器、文织、良货贿之物,受而藏之。凡玉之好赐,供其货贿。
贾山《至言》:"昔者,周盖千八百国,以九州之民养千八百国之君,用民之力不过岁三日,什一而籍,君有馀财,民有馀力,而颂声作。秦皇帝以千八百国之民自养,力罢而不能胜其役,财尽而不能胜其求。一君之身耳,所以自养者驰骋弋猎之虞,天下弗能供也。"
汉兴,接秦之弊,民失作业,而大饥馑。天下既定,民亡盖藏,自天子不能具醇驷(醇,不杂也),而将相或乘牛车。上於是约法省禁,轻田租,而山川园池市肆租税之入,自天子以至封君汤沐邑,皆各有私奉养,不领於天子之经费。漕转关东粟以给中都官,岁不过数十万石。文帝即位,贾谊说上曰:"汉之为汉几四十年,公私之积犹可哀痛。"云云,上感谊言,开籍田,躬耕以劝百姓。
晁错说上募民入粟,边支五岁则入粟郡县,支一岁则时赦,勿收农民租(见《田赋门》。)
武帝时,太仓之米红腐而不可食,都内之钱贯朽而不可授,乃外事四夷,内兴功利。用度不足,乃募民入奴婢得以终身复,及入羊为郎,又令民买爵,置武功爵(见《鬻爵门》),造皮币、白金(见《钱币门》),置盐、铁、均输官,算商车、缗钱,榷酒酤(见《征榷门》)。
西汉财用之司凡三所:大司农(官库),少府、水衡(二者天子之私藏)。故桑弘羊言"山海天地之藏,宜属少府,陛下勿私,以属大农",毋将隆言"大司农钱自乘舆不以给供养供养,劳赐一出少府"。盖不以本藏给末用,不以民力供浮费,别公私,示正路也。又宣帝本始二年,以水衡钱为平陵民起第宅。应劭注:"县官公作当仰司农,今出水衡钱,宣帝即位为异政也。"
王莽末,边兵二十万人仰县官衣食,用度不足,数横赋敛。又一切税吏民,訾三十而取一。又令公卿以下至郡县黄绶吏,皆保养军马(师古曰:"保者,不许其死伤"),吏尽复以与民(转令百姓养之)。民摇手触禁,不得耕桑,繇役烦剧,旱蝗相因。上自公侯,下至小吏,皆不得奉禄,而私赋敛,民无以自存,盗贼蜂起。
汉兵攻莽,时省中黄金万斤者为一匮,尚有六十匮,黄门、钩盾、藏府、中尚方处处各有数匮。长乐御府、中御府及都内,平准帑藏钱帛珠玉财物甚众,莽愈爱之。拜将军九人,皆"虎"为号,将精兵而东,纳其妻子宫中以为质。赐九虎士人四千钱,众重怨,无斗志。
更始都长安,居安乐宫,府藏完全,独未央宫烧,攻莽三日,死则安堵复故。更始至,岁馀政教不行。明年,赤眉入关,立刘盆子,遂烧长安宫室市里,害更始,长安为虚,城中无人行。
东汉大司农掌诸钱榖金帛诸货币,四时上月旦见钱榖簿,其逋未了,各具别之。边郡诸官请调度者皆为报给,损多益寡,取相给足。部丞一人主帑藏,太仓令一人主受郡国传漕榖。
世祖建武六年,诏田租三十税一如旧(见《田赋门》)。
肃宗时,张林请置盐、铁、均输官(见《征榷门》)。
旧大官汤官给用岁且二万万,窦太后诏杀省珍费,自是裁数千万。汉故事,供给南单于岁一亿九十馀万,西域岁七千四百八十万。
桓帝时,段熲言:"永初中,诸羌反叛,十有四年,用二百四十亿;永和之末,复给七年,用八十馀万亿。今若以骑五十,步万人,车三千两,三冬二夏,无虑用费五十四亿。"
灵帝光和元年,初开西邸卖官,自关内侯、虎贲、羽林,入钱各有差。私令左右卖公卿,公千万,卿五百万。
中平二年,敛修宫钱。
中常侍张让、赵忠说帝敛天下田亩税十钱,以修宫室。又令西园驺分道督趣,恐动州郡,多受赇赂。刺史、二千石及茂才、孝廉迁除,皆责助军、修宫钱,大郡至二三十万,馀各有差。当之官者,皆先至西园谐价,然後得去,其守清者乞不之官,皆迫遣之。时钜鹿太守司马直新除,以有清名,减责三百万。直被诏,怅然曰:"为民父母,而反割剥百姓,以称时求,吾不忍也。"辞疾,不听。行至孟津,上书极谏当世之失,即吞药自杀。书奏,帝为暂绝修宫钱。又造万金堂於西园,引司农金钱缯帛,仞积其中。又还河间买田宅,起第观。帝本侯家,宿贫,每叹桓帝不能作家居,故聚为私藏,复藏寄小黄门、常侍钱各数千万。
帝多蓄私藏,收天下之珍,每郡国贡献,先输中府,名为"导行费"(中府,内府也。导,引也,贡献外别有所入,以为所献希之引导也)。
吕强上疏谏曰:"天下之财,莫不生之阴阳,归之陛下。归之陛下,岂有公私?而尚方敛诸郡之宝,中御府积天下之缯,西园引司农之藏,中厩聚太仆之马,而所输之府,辄有导行之财。调广民困,费多献少,奸吏因其利,百姓受其弊。"书奏不省。
献帝即位,董卓劫迁长安,卓诛死,李傕、郭氾自相攻伐,於长安城中为战地。时榖一斛五十万,豆麦二十万,人相食啖,白骨盈野。帝出太仓米豆为饥民作糜,於御前自加临给。及东归至安邑,御衣穿败,唯以野枣、园菜以为糇粮,长安丘墟。建安元年,驾至洛阳,百官披荆棘而居。州郡各拥强兵,委输不至,尚书郎官自出采稆,或不能自反,死於墟巷。
晋武帝平吴之後,世属升平,物流仓府,宫闱增饰,服玩相辉。於是王君夫武子、石崇等更相夸尚,舆服鼎俎之盛,连衡帝室,布金埒之泉,粉珊瑚之树。物盛则衰,固其宜也。永宁之初,洛中尚有锦帛四百万,珠宝金银百馀斛。惠后北征,荡阴反驾,寒桃在御,只鸡以给,其布衾两幅、囊钱三千,以为车驾之资焉。怀帝为刘曜所围,王师累败,府帑既竭,百官饥甚,比屋不见烟火,饥人自相啖食。愍皇西宅,馁馑仍多,斗米二金,死人大半,刘曜陈兵,内外断绝,拾饼之麴屑而供御,君臣相顾挥涕。
元帝渡江,军士创草蛮陬,赕布不可恒准,中府所储布四千疋。於时石勒勇锐,挺乱淮南,帝惧其侵逼,乃诏方镇能斩勒首者,赏布千疋云。
苏峻既平,帑藏空竭,库中唯有练数千端,鬻之不售,而国用不给。王导患之,乃与朝贤俱制练布单衣,於是士人翕然竞服之,练遂踊贵,乃令主者出卖,端至一金。
晋自元帝寓居江左,侨立郡县,诸蛮陬俚洞霑沭王化者,各隨輕重收其賧物,以裨国用,历宋、齐、梁、陈,皆因而不改(见《田赋门》)。
後魏自孝明帝正光後,国用不足,乃先折天下六年租调而徵之,百姓怨苦,有司奏断百官当给之酒,计一岁所省米榖麴有差(见《榷酤门》)。尔後寇贼转众,诸将出征,相继奔败,帑藏空竭,有司又奏内外百官及诸蕃客廪食、肉悉三分减一,计岁终省肉百五十九万九千八百五十六斤、米五万三千九百三十二石。
魏自永安之後,政道陵夷,寇乱寔繁,农商失业。官有征伐,皆权调於人,犹不足以相资奉,乃令所在迭相纠发,百姓愁怨,无复聊生。六镇扰乱,相率内徙,寓食齐、晋之郊,齐神武因之,以成大业。魏武西迁,连年战争,河、洛之间,又并空竭,迁都於邺。时六坊之众从武帝而西者,不能万人,馀皆北徙,并给常廪,逐丰稔之处,折绢籴粟,以充国储。於诸州缘河津济,皆官仓贮积,以拟漕运;於沧、瀛、幽、青四州之境,傍海置盐官以煮盐,每岁收钱,军国之资,得以周赡。
北齐武成时,用度转广,赐予无节,府藏不足以供,乃减百官之禄,彻军人常廪,并省州郡县镇戌之职;又制刺史守宰行兼者并不给幹(南齐以有僮幹,若今驱使门仆之类),以节国用之费焉。
隋文帝开皇时,百姓承平渐久,虽遭水旱,而户口岁增,诸州调物,每岁河南自潼关,河北自蒲坂,至於京师,相属於道,昼夜不绝数月。帝又躬行节俭,益宽徭赋,平江表,师还,赐物甚广,其馀出师命赏,莫不优崇。十二年,有司上言库藏皆满,帝曰:"朕既薄赋於人,又大经赐用,何得尔也?"对曰:"用处常出,纳处常入,略计每年赐用至数百万段,曾无减损。"乃更开左藏之院,构屋以受之。诏曰:"既富而教,方知廉耻,宁积於人,无藏府库。"乃蠲河北、河东今年田租,三分减一,兵减半,功调全免。炀帝即位,户口益多,府库盈溢,乃除妇人及奴婢、部曲之课。其後征伐巡游不忘,租赋之入益减,百姓怨叛,以至於亡。
按:古今称国计之富者莫如隋,然考之史传,则未见其有以为富国之术也。盖周之时,酒有榷,盐池、盐井有禁,入市有税,至开皇三年而并罢之。夫酒榷、盐铁、市征,乃後世以为关於邦财之大者,而隋一无所取,则所仰赋税而已。然开皇三年调绢一疋者减为二丈,役丁十二番者减为三十日,则行苏威之言也。继而开皇九年以江表初平,给复十年,自馀诸州并免当年租税。十年,以宇内无事,益宽徭赋,百姓年五十者输庸停放。十二年,诏河北、河东今年田租三分减一,兵减半,功调全免,则其於赋税复阔略如此。然文帝受禅之初,即营新都徙居之,继而平陈,又继而讨江南、岭表之反侧者,则此十馀年之间,营缮征伐未尝废也。史称帝於赏赐有功,并无所爱,平陈凯旋,因行庆赏,自门外夹道列布帛之积,达於南郭,以次颁给,所费三百馀万段,则又未尝啬於用财也。夫既非苛赋敛以取财,且时有征役以糜财,而赏赐复不吝财,则宜用度之空匮也,而何以殷富如此?史求其说而不可得,则以为帝躬履俭约,六宫服浣濯之衣,乘舆供御有故敝者,随令补用,非燕享不过一肉,有司尝以布袋贮乾姜,以毡袋进香,皆以为费用,大加谴责。呜呼!夫然後知《大易》所谓"节以制度,不伤财,不害民",《孟子》所谓"贤君必恭俭礼下,取於民有制"者,信利国之良规,而非迂阔之谈也。汉、隋二文帝皆以恭履朴俭富其国,汉文师黄老,隋文任法律,而所行暗合圣贤如此。後之谈孔孟而行管商者,乃曰"苟善理财,虽以天下自奉可也",而其党遂倡为"丰亨豫大,惟王不会"之说,饰六艺,文奸言,以误人国家,至其富国强兵之效,则不逮隋远甚,岂不缪哉!
唐贞观时,马周上疏曰:"隋室贮洛口仓,而李密因之;东都积布帛,而王世充据之;西京府库亦为国家之用,至今未尽。向使洛口、东都无粟帛,则王世充、李密未能聚大众。但贮积固有司之常事,要当人有馀力而後收之,若人劳而强敛之,更以资寇,积之无益也。"
唐天宝以来,海内富实,天下岁入之物,租钱二百馀万缗,粟千九百八十馀万斛,庸、调绢七百四十万疋,绵百八十馀万屯,布千三十五万馀端。天子骄於佚乐而用不知节,大抵用物之数,常过於所入,於是钱榖之臣始事朘削。太府卿杨崇礼句剥分铢,有欠折渍损者,州县督送,历年不止。其子慎矜专知太府,次子慎名知京仓,亦以苛刻结主恩。王洪为户口色役,使岁进钱百亿万缗,非租庸正额者,积百宝大盈库,以供天子燕私。及安禄山反,杨国忠以为正库物不可以给士,遣御史崔众至太原纳钱度僧尼、道士,旬日得万缗而已。自两京陷没,民物耗弊,肃宗即位,籍江淮富商訾(见《訾算门》),时第五琦以钱榖得见,请於江淮置租庸使。明年,宰相裴冕以天下用度不足,诸道得召人纳钱,给空名告身,授官勋邑号,度道士、僧尼不可胜计;纳钱百千,赐明经出身;商贾助军者,给复。
故事,天下财赋归左藏,而太府以时上其数,尚书比部覆其出入。时京师豪将假取不能禁,第五琦为度支盐铁使,请皆归大盈库,供天子给赐,主以中官。自是天下之财为人君私藏,有司不得程其多少。
杨炎既相德宗,上言曰:"财赋,邦国大本,生人之喉命,天下治乱轻重系焉。先朝权制,以中人领其职,五尺宦竖操邦之柄,丰俭盈虚虽大臣不得知,无以计天下利害。臣请出之,以归有司,度宫中给费一岁几何,量数奉入,不敢阙。"帝从之,乃诏岁中裁取以入大盈库,度支具数先闻。
初,转运使掌外,度支使掌内。永泰二年,分天下财赋、铸钱、常平、转运、盐铁,置二使。东都畿内、河南、淮南、江东西、湖南、荆南、山南东道,以转运使刘晏领之;京畿、关内、河南、剑南、山南西道,以京兆尹、判度支第五琦领之。及琦贬,以户部侍郎、判度支韩滉与晏分治。时回纥有助收西京功,代宗厚遇之,与为婚,岁送马十万疋,酬以缣帛百馀万疋,而中国财竭,岁负马价。鱼朝恩、元载擅权,帝诛朝恩,复与载贰,君臣猜间不协,边计兵食置而不议者几十年。诸镇擅地,结为表里,日治兵缮垒,天子不能绳其法,专留意祠祷,焚币玉,写浮屠书,度支廪赐僧巫,岁钜万计。时朝多留事,经岁不能遣,置客省以居,上封事不足采者,蕃夷贡献未报及失职未叙者,食度支数千百人。德宗即位,用宰相崔祐甫,拘客省者出之,食度支者遣之,岁省费万计。
自至德以後,天下兵起,因以饥厉,百役并兴,人户凋耗,版图空虚。军国之用,仰给於度支、转运使,四方征镇又自给於节度、都团练使。赋敛之司数四,莫相统摄,纲目大坏,朝廷不能覆诸使,诸使不能覆诸州。四方贡献,悉入内库,权臣巧吏因得旁缘,公託进献,私为赃盗,动万万计。河南、山东、荆襄、剑南重兵处,皆厚自奉养,王赋所入无几。科敛凡数百名,废者不削,重者不去,新旧仍积,不知其涯。百姓竭膏血,鬻亲爱,旬输月送,无有休息。吏因其苛,蚕食於人,富者得免,贫者丁存,故课免於上,而赋增於下。杨炎为相,乃请为两税法以均之,自此吏不能容奸,权归朝廷(详见《田赋门》)。
初,德宗居奉天,储蓄空窘,尝遣卒视贼,以苦寒乞襦,不能致,剔亲王带金而鬻之。朱泚既平,乃屬意聚歛,常賦之外,進奉不息,劔南西川節度使韋臯有“日進”,江西观察使李兼有"月进",他如杜亚、刘赞、王纬、李錡皆徼射恩泽,以常赋入贡,名为"羡馀",至代易又有"进奉"。户部钱物,所在州府及巡院皆得擅留,或矫密旨加敛,或减刻吏禄,或贩鬻蔬果,往往私自入,所进才什二三,无敢问者。刺史及幕僚至以进奉得迁官。继而裴延龄用事,益为天子积私财,生民重困,又为宫市(见《征榷门》)。
朱泚僭位長安,既據府庫之富,不愛金帛以悦將士,公卿家屬在城者皆給月俸,神策及六军从车驾及哥舒曜、李晟者皆给其衣粮。加以缮完器械,日费甚广。及长安平,府库尚有馀蓄,见者皆追怨有司之横敛焉。
裴延龄领度支,奏:"左藏库司多有失落,近因检阅使置簿书,乃於粪土之中得银十三万两,其疋段杂货百万有馀,此皆已弃之物,即是羡馀,悉应移入杂库,以供别敕支用。"太府少卿韦少华不伏,抗表称此皆每月申奏见在之物,请加推验。执政请令三司详覆,上不许,亦不罪少华。
司马温公有言:"天之生财止有此数,不在民则在官,譬如雨泽,夏潦则秋旱。"善哉言也。後世多欲之君、聚敛之臣,苛征横敛,民力不堪而无所从出,於是外则擅留常赋以为进奉,内则妄指见存以为羡馀,直不过上下之间自相欺蔽耳。德宗借军兴用度不足之名,而行间架、陌钱诸色无艺之征敛,乃复不能稍丰泾原军士之廪饷,以致奉天之难,至委其厚藏以遗朱泚。泚平而府库尚盈,人皆追怨横敛,而帝方惩奉天储蓄空窘,益务聚蓄,不知所以致难之由非因乏财,盖知聚而不知散,乃怨府也。不明之君可与言哉?
宪宗时,分天下之赋以为三:一曰上供,二曰送使,三曰留州。宰相裴垍又令诸道观察、节度调费取於所治州,不足则取於属州,送使之馀与其上供者皆输度支。时因德宗府库之积,天子颇务俭约。及刘辟、李錡平,赀藏皆入内库。方鎮于頔王鍔進獻甚厚,帝受之,李絳言其非宜,帝喟然曰:“誠知非至徳事,然两河中夏贡赋之地,朝觐久废,河、湟陷没,烽候列於郊甸,方刷祖宗之耻,不忍重敛於人也。"然不知进献之取於人重矣。其後,皇甫鎛、王遂、李翛、程异用事,益务聚敛,诸道贡献尤甚。
会昌末,置备边库,收度支、户部、盐铁钱物。宣宗更号延资库。初以度支郎中判之,至是以属宰相,其任益重。户部岁送钱帛二十万,度支盐、铁送者三十万,诸道进奉助军钱皆输焉。
元和中,供岁赋者,浙西、浙东、宣歙、淮南、江西、鄂岳、福建、湖南八道,户百四十四万,比天宝四之一,兵食於官者八十三万,加天宝三之一,通以二户养一兵。京西北、河北以屯田广,无上供。至长庆,户三百三十五万,而兵九十九万,率三户以奉一兵。至武宗即位,户二百一十一万四千九百六十。会昌末,户增至四百九十五万五千一百五十一。宣宗既复河、湟,天下两税、榷酒茶盐,岁钱入九百二十二万缗,岁之常费率少三百馀万,有司远取後年乃济,及郡盗起,诸镇不复上计云。
李吉甫为《元和国计簿》及中书奏疏,以天下郡邑户口财赋之入较吏禄、兵廪、商贾、僧道之数,大率以二户而资一兵,以三农而养七游手。
後唐庄宗既灭梁,宦官劝帝分天下财赋为内、外府,州县上供者入外府、充给费;方镇贡献者入内府,充宴游及给赐左右。於是外府常虚竭无馀,而内府山积,及有司办郊祀,乏劳军钱。郭崇韬颇受藩镇馈遗,或谏之,崇韬曰:"吾位兼将相,禄赐巨万,岂藉外财?但伪梁之世,贿赂成风,今河南藩镇皆梁旧臣,主上之仇雠也,若拒其意,能无惧乎?吾特为国家藏之私室耳。"至是,首献劳军钱十万缗,因言於上曰:"臣已倾家所有,以助大礼。愿陛下亦出内府之财,以赐有司。"上默然久之,曰:"吾晋阳自有储蓄,可令租庸辇取以相助。"於是取李继韬私第金帛数十万以益之(继韬时以诛死)。军士皆不满望,始怨恨有离心矣。
潞王之发凤翔也,许军士以入洛人赏钱百缗。既至,阅府库实金帛不过三万疋、两,而赏军之费应用五十万缗,乃率京城民财,数日仅得数万缗。执政请据屋为率,无问士庶,自居及僦者预借五月僦直,百方敛民财,仅得六万。帝怒,下军巡使狱昼夜督责,囚系满狱,贫者至自经死,而军士游市肆皆有骄色。时竭左藏旧物及诸道贡献,乃至太后、太妃器服簪珥皆出之,才及二十万缗。帝患之,李专言於帝曰:"窃思自长兴之季,赏赉亟行,卒以是骄。继以山陵及出师,帑藏遂涸。虽有无穷之财,终不能满骄卒之心,故陛下拱手於危困之中而得天下。夫国之存亡,不专系於厚赏,亦在修法度、立纪纲。陛下苟不改覆车之辙,臣恐徒困百姓,存亡未可知也。今财力尽於此矣,宜据所有均给之,何必践初言乎?"帝以为然。军士无厌,犹怨望。
宋太祖皇帝乾德三年,诏诸州支度经费外,凡金帛悉送阙下,无得占留。自唐末兵兴,方镇皆留财赋自赡,名曰留使、留州,其上供殊鲜。五代疆境迫蹙,藩镇益强,率令部曲主场、院,厚敛以自奉。太祖周知其弊,後藩郡有阙,稍命文臣权知所在场务,或以京朝官廷臣监临,於是外权削而利归公上,条禁文簿,渐为精密。
六年,诏诸州通判、官粮科院至任,并须躬自检阅帐籍所列官物,不得但凭主吏管认文状。
是岁,置封桩库。国初,贡赋悉入左藏库,及取荆、湖,下西蜀,储积充羡,始於讲武殿别为内库,号"封桩库",以待岁之馀用。
帝尝曰:"军旅、饥馑,当预为之备,不可临事厚敛於人。"乃置此库。太宗又置景福殿库,隶内藏库,拣纳诸州上供物,尝谓左右曰:"此盖虑司计之臣不能约节,异时用度有阙,当复赋率於民耳。朕终不以此自供嗜好也。"自乾德、开宝以来,用兵及水旱赈给、庆泽赐赉,有司计度之所缺者,必籍其数,以贷於内藏,俟课赋有馀则偿之。淳化後,二十五年间,岁贷百万,有至三百万者。累岁不能偿,则除其籍。
止斋陈氏曰:"国初平僭伪,尽得诸国所藏之赋入内藏。是後,时时以州县上供掯拨入库,而不齐集,守藏之臣每以为言,上亦不察察也。盖祖宗盛时,内藏库止是收簇给费之馀或坊场课利,不以多寡,初无定额。熙宁二年,始命三司户部判官张讽核实,讽取自嘉祐至治平十年以来输送之数、见得川路金银,自皇祐三年并纳内库,馀福建、广东、淮南、江南东则各有窠名分隶。而十年之间所入殊不等,乃诏今後并令纳左藏库,逐年於左藏库拨金三百两、银五十万两入内藏,遂为永额。然讽元奏治平以前诸路所进坑冶、山泽、河渡课利,悉在其中,既合为元额矣,在後中书再取旨,以诸路提点银铜坑冶司所辖金银场冶课利并依久例,尽数上供入内库,则坑冶之入不理为左藏库年额之数。自是条制益严密,皆王安石之为也。元丰元年,敕诸路上供金银钱帛令赴内藏库内者,委提刑拘催,擅折变、那移、截留者徒二年,不以赦原。元祐诏令诸路坑冶课利七分起发赴内藏库,三分充漕计,靖康改元,三分复尽输内藏矣。"
开宝元年,诏诸道给舟车辇送上供钱帛。
止斋陈氏曰:"国初上供随岁所入,初无定制,而其大者在粮、帛、银、钱、诸路米纲。《会要》:开宝五年,令汴、蔡河岁运江淮米数十万石赴京充军食;太平兴国六年,制岁运三百五十万石;景德四年,诏淮南、江、浙、荆湖南北路,以至道二年至景德二年终十年酌中之数,定为年额,上供六百万石。米纲立额始於此。银纲,自大中祥符元年诏五路粮储已有定额,其馀未有条贯,遂以大中祥符元年以前最为多者为额,则银纲立额始於此。钱纲,自天禧四年四月三司奏请立定钱额,自後每年依此额数起发,则钱纲立额始於此。绢绵纲虽不可考,以咸平三年三司初降之数,则亦有年额矣。然而前朝理财务在宽大,随时损益,非必尽取。上供增额起於熙宁,虽非旧贯,尤未为甚。崇宁三年十一月,始立上供钱物新格,於是益重。宣和元年,户部尚书唐恪稽考诸路上供钱物之数:荆湖南路四十二万三千二百二十九万疋、两,利州路三万二千五百一十八贯、疋、两,荆湖北路四十二万七千二百七十七贯、疋、两,夔州路一十二万三百八十九贯、疋、两,江南东路三百九十二万四百二十一贯、疋、两,福建路七十二万二千四百六十七贯、疋、两,京西路九万六千三百五十一贯、疋、两,河北路一十七万五千四百六十四贯、疋、两,广西路九万一千九百八十贯、疋、两,京东路一百七十七万二千一百二十四贯、疋、两,广南东路一十八万八千三十贯、疋、两,陕西路一十五万七百九十贯、疋、两,江南西路一百二十七万六千九十八贯、疋、两,成都路四万五千七百二十五贯、疋、两,潼川路五万二千一百二十贯、疋、两,两浙路四百四十三万五千七百八十八贯、疋、两,两淮南路一百一十一万一千六百四十三贯、疋、两,而斛斗地杂科不与焉,其取之民极矣。方今版图仅及承平之半,而赋入过宣和之数,虽曰饷军,出不得已,要非爱惜邦本之道,此宽民力之说所以为最先务也。"
按:止斋此段足以尽宋朝上供之委折。上供之名始於唐之中叶,盖以大盗扰乱之後,赋入失陷,国家日不暇给,不能考覈,加以强藩自擅,朝廷不能制,是以立为上供之法,仅能取其三之一。宋兴,既已削州镇之权,命文臣典藩,奉法循理,而又承平百年,版籍一定,大权在上,既不敢如唐之专擅以自私,献入有程,又不至如唐之隳乱而难考则,虽按籍而索,锱铢皆入朝廷,未为不可。然且犹存上供之名,取酌中之数,定为年额,而其遗利则付之州县桩管,盖有深意:一则州郡有宿储,可以支意外不虞之警急;二则宽於理财,盖阴以恤民。承流宣化者幸而遇清介慈惠之人,则上供输送之外,时可宽假以施仁;不幸而遇贪饕纵侈之辈,则那计优裕之馀,亦不致刻剥以肆毒,所谓损上益下者也。呜呼,仁哉!
六年,令诸州旧属公使钱物尽数系省,毋得妄有支费。以留州钱物尽数系省始於此。
止斋陈氏曰:"自唐末方镇厚敛以自利,上供殊鲜,或私纳货赂,即名贡奉,至是始尽系省。按:後唐天成年宣命,於系省麴钱上,每贯止二百文充公使。同光二年,庸租院奏,诸道如更妄称简置官员,即勒令自备请给,不得正破系省钱物,则系省之名旧矣,然初未尝立拘辖钩管之制,要不使妄费而已。淳化五年十二月,初置诸州应在司,具元管、新收、已支、见在钱物申省。景德元年,复立置簿,拘辖累年应在。虽有此令,不过文具。三司使丁谓奏立转运司比较闻奏,省司进呈增亏赏罚之法。然承平日久,国家盖务宽大,诸郡钱物往往积留,漕臣靳惜,吝於起发,而省司殊不究知其详。魏羽在咸平则言淳化以来收支数目攒簇不就,名为主计而不知钱出纳。王随在景德则言咸平以来未见钱物著落,诸州受御指挥,多不供申,或有申报多是卤莽,以致勘会勾销了绝不得。范雍在天圣则又言自太平兴国以来未尝除破,更有桩管,倍万不少。天圣至嘉祐四十年间,理财之令数下,徒有根括驱磨之文,设而不用,以此见得开国以来讫於至和,天下财物皆藏州郡。祖宗之深仁厚泽,於此见矣。熙宁五年,看详编修中书条例检正五房公事、判司农寺曾布奏:'伏以四方财物,乾没差谬,漫不可知,三司虽有审覆之名,不复省阅,但为空文。自天圣九年,上下因循,全无检点,纵有大段侵欺,亦无由举发,为弊滋多。'遂乞专置司驱磨天下帐籍。自专置司,继以旁通目子,而天下无遗利,而公使钱始立定额,自二百贯至三千贯止。州郡所入,才醋息、房园、祠庙之利,谓之'收簇',守臣窘束,屡有奏陈(谓如本州额定公使钱一千贯,则先计其州元收坊场、园池等项课利钱若干,却以不系省钱贴足额数。然诸项课钱逐年所收不等,或亏折不及元数,而所支不系省贴足之钱更不增添,则比额定数有不及一半者,此其所以窘束也)。後又以在州诸色钱类为一体,封桩入便,以便不尽钱起发。初,嘉祐茶通商,於是以六路茶本钱、茶租、茶税钱封桩入便,若辄有支动,即当职黜降,不以自首、迁官、去官、赦降原减之限。至是,遂以七路诸色钱并依通商茶法矣。元丰五年,又以上供年额外,凡琐细钱定为无额上供(谓坊场税钱、增添盐酒钱、卖香矾钱、卖秤斗钱、卖铜锡钱、披剃钱、封赠钱、淘寻野料钱、额外铸到钱、铜铅木脚钱、竹木税钱、误支请受钱、代支失陷赏钱、赃罚钱、户绝物帛钱)。盖自系省而後有应在司,有应在司而後有封桩,有封桩而後起发。盖至熙、丰系省,初无窠名,应在司最为冗长,此元祐群臣所以深罪王安石之纷更也。"
又诏诸州守臣,非圣节进奉,自馀诸般进奉钱物并留本州管系,不得押领上京。圣节进奉始此。
止斋陈氏曰:"谨按李焘《续通鉴》、熊克《九朝要略》,皆於乾德三年三月平蜀後书:诏诸州计度经费外,凡金帛悉送阙下,於是外权削而利归公上矣。盖约本志修入,而《实录》不著。窃考建隆以来,凡上供纲皆有元降指挥,独不见上件条贯,唯至道四年二月十四日,敕川陕钱帛令本路转运司计度,只留一年支备,其剩数计纲起发上京,不得占留,盖平蜀後事也。自馀诸州常切约度,在州以三年准备为率外,县镇二年,偏僻县镇一年,河北、陕西缘边诸州不在此限。江、浙、荆湖、淮南西六路自来便钱,州月帐内将见钱除半支遣外,并具单状申奏。诸州应系钱物合供文帐,并於逐色都数下,具言元管年代、合系本州支用申省,候到省日,或有不系本州支用及数目浩大,本处约度年多支用不尽时,下转运司及本州相度,移易支遣。三司据在京要用金银钱帛诸般物色,即除式样遍下诸州府,具金银钱帛粮草收、支、见在三项单数,其见在项内开坐约支年月,省司即据少剩数目下诸路转运司移易支遣,及牒本州般送上京。如有约度不足去处,许以收至诸色课利计置封桩,以此参考是岁进奉约束。并景德元年李焘所奏,足见国初未尝务虚外郡,以实京师,今从《实录》。"
按:乾德三年有诸州金帛悉送阙下之诏,今复有此诏,疑若异同,而止斋遂以《实录》不载前诏为疑。盖唐末而方镇至於擅留上供之赋,威令不行故也;宋兴而州郡不敢私用留州之钱,纪纲素立故也。既欲矫宿弊,则不容不下乾德之诏;然纪纲既已振立,官吏知有朝廷,则不妨藏之州郡,以备不虞,固毋烦悉输京师而後为天子之财也。
诏官受仓场头子钱之半(头子钱本末见《田赋门》)。